2010年12月04日

その4「原則交流 実質平等」

「原則交流 実質平等」

共同親権が実現しても、実際に会えるようになる親子は少ないのではという危惧がある。
この用語は、対等な立場としての理念としての共同親権とは別に、子どもの養育についての実質的な平等性について強調して用いた言葉。
「会わせないほうがいい場合は」という質問を受けることがよくある。それは同居親の側が会う会わせないを決めていい現在のルールを反映しての質問の仕方なのだけれど、それに対してははやはり、離婚後の子どもの養育は双方の親が担うのが原則であるという答えが必要であろう。
面会が制約されるのは、海外では児童虐待があった場合などであるそうだけれど、その場合でも完全に親子関係を絶つというのはめったになく、一定の監視下で慣れさせつつ、普通の面会交流に移行していくというのがパターンのようだ。夫婦間にDVがあった場合も、同様に注意深くなされる。
どういう場合に面会が制約されるかは、離婚していない家庭でも児童虐待があれば親の権利について制約され、児童相談所に子どもが保護されることを考えると、同様の基準での適用が親の離別後も考えられるだろう。

例えば公民権運動によって、黒人が参政権を得た後、それでも差別は根強く下層社会から黒人が這い上がることは難しかった。
そこで、社会的地位の実質的な平等を目指して、就職や入学などについて人口比に応じた枠を設定して優先的に入れるという施策がアメリカではとられたことがあったようだけれど、これをアファーマティブ・アクションという。黒人の子どもの入学時には、警察官が護衛して学校に送り届けるということまでやったようだけれど、人権保障が国の役割だというのがよく自覚されているということなのだろう(この施策はその後、さまざまに議論されてきたけれど)。

特に離別後の共同監護を考えるときに、「実質平等」を強調するなら、両方の親が子どもの養育に意欲を見せている場合、5:5の監護割合が権利として可能であることを理念として認めるということは必要なことだろうと思う。
フランスなどでは、1週間ごとに子どもが両親の間を行き来するということが実践としてなされているようだけれども、離別時において両親間の葛藤を高めないためにも、このような理念は重要である。
共同監護における実質平等の保障は、長い差別の歴史に対するアファーマティブ・アクションというわけ。
こういった問題意識は、婚姻中の男女間の対等性への自覚を促すものでもある。

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その3「共同親権は平等親権」

「共同親権は平等親権」

「共同親権」という言葉を、親の権利の平等性という理念を強調して使った言葉。つまり単独親権は不平等ということになる。

婚姻中共同親権

日本は戦前は婚姻中も単独親権だったわけで、親権は家長、つまり男にあった。
だから戦後高度成長の時代までは、離婚後の親権が男に行く割合が高かった。経済力のない女性は監護権を得て子育てしても、子どもは家のものだから男が金を出し親権を持ち続けるという理屈なのだろう。離婚後の親権獲得の男女比が逆転するのは、1965年である。
戦後日本が婚姻中共同親権となったのは、憲法の男女平等原則と法律婚保護の原則を戦前民法に適用した結果というのが実状のようだ。
つまり、戦後の単独親権で意味があるのは、双方の親が子どもの養育を押し付けあったときに、責任者を決めるというときくらいで、それ以外で合理性があるというわけではない。
双方の親が子どもの奪い合いをしているときに、単独親権の弊害が指摘されるのは、法があまり想定していない事態ということができる。

ところで、婚姻中になされる一方の親による子の連れ去りは、婚姻中の共同親権すら、日本の法運用や裁判実務で守れないことを言い表している。
民法上の居所指定権や監護権の共同行使を、子の連れ去りによって一方の親が侵害しているにもかかわらず、何らそれをとがめる法律もなく、むしろ裁判所は2回目の連れ去りを犯罪にすることで、連れ去りを助長している。警察の対応もあまり変わらない。
婚姻中の親権行使の平等性が保障されないのに、いわんや離婚後をやだ。

「親権がなくなると親じゃなくなる」

ところで親権と親の権利というのは実際はズレがある。
だから「共同親権」は「平等親権」というとやや語彙としては貧しい。
親権の中身にそんな規定がないのに、親の権利の存在を裁判所も認めているので裁判実務で離婚後の面会交流調停が可能になるのにはそういう理屈がある。親権者変更もできる。
だから、「親権がなくなると親じゃなくなる」という会えない親のレトリックは、厳密ではない。
しかし実際には、たとえ面会交流調停を起こしたとしても、権利の実現を義務者に負わせているような現在の法運用と裁判実務の実状では、法的にどうかはともかく、「親権がなくなると親じゃなくなる」というのはあながち間違っていない。どころかむしろ強調したほうがいいと思う。
それは法的な文言においても同様である。
親権の中身は、居所指定権や監護権、財産管理権、懲戒権などが含まれる。
何だか動物園のトラを扱うようなものだ。調教が必要っていうわけ。
それでも、別居・離婚後にこれらの権利を行使できるかといえば、相手が拒否的である場合、財産管理権以外は事実上無理なわけで、親の権利が子の支配権であるという問題性を差し引いても、別居親には権利行使の道筋が事実上何ら残されていない。
死んだら相続が子に行くくらいである。子どもが死んだら知らせも来ない。生きているか死んでいるかもわからないのだ。
「親の権利」と言ったときに子どもの成長にかかわることというのは権利性としてはあまり考えられてこなかった。しかし事実上無権理状態である中で、親の権利ではなくむしろ「子どもの福祉」だけを強調するほど、物分りがよくなる必要はない。
だいたいが「子どもの福祉」という言葉で、別居親は子どもに会えなくさせられてきたからだ。
親の権利が守れなくて、子どもの権利が守れるの。
子どもとの関係性を考える中で、親の権利の実現を求めていこう。
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その2「別居親差別」

「別居親差別」

子どもと暮らす親のことを「同居親」、子どもと離れて暮らす親のことを「別居親」と言う。

「別居親差別」とは、別居親であるがゆえに受ける不当な扱いのことを言う。
たとえば、「会わせてもらえないなんて、よっぽどひどいことしたんじゃない」なんてよくある会話は差別を内在する。
別居親が子どもに会えないのは、当事者どうしの問題がたとえあったとしても、法制度や社会構造、「先に取った者の勝ち」という野蛮なルールに多く原因があり、その点についての認識が欠けていると、上記のような社会認識が形成される。
「私が子どもに会えないのは、社会の側、つまりあなたたちの問題なんです」
というのを口に出すことは重要だ。

「会えない親」にも「会わせない親」にもそれぞれ理屈があって、それを言い合っていてもしょうがない。夫婦喧嘩を別れた後に再現するだけだからだ。
比べるとしたら、離婚していない家庭と、離婚した家庭の親子関係であって、離婚していない家庭の場合、たとえ親がハチャメチャであっても(夫婦間関係に葛藤はつきものだ)、それで会えないなんてことはない。別居親の子どもへのアクセスの制約の理由は、物理的なものは(離れて暮らすからいつもいっしょにいれるわけではない。それはいっしょに暮らしていても似ているけれど)ありうるとしても、それ以外の部分は、大方根拠がない。
親どうしの対立の継続に、子どもを使えば「引き離し」が始まる。
監護を5対5で分け合う共同監護の場合、そもそも「同居親」、「別居親」という区分すら意味がなくなるだろう。

「財産は分けられるけど、子どもは分けられないから、養育時間を分ける」

「シングルマザー」、「シングルファーザー」という言葉も、共同監護が一般的になれば、あまり有効な呼び名とは言いがたくなる。


「非親権親差別」

親権のない親に対する差別として、最初に考えた言葉だけれど、あんまり座りがよくないので、「別居親差別」をほかの人が言い出したのでそっちを使うようにした。
ただ、親権のない親が不当な扱いを受けるというのは、この言葉で言い当てられる。もちろん、親権があっても、子どもの養育にかかわれない人も少なくない。
会えない親が、会わせない親に、「あなた私と平等だとでも思っているの」と言われたというのを聞いたことがあるけれど、これなど、法制度が人間関係の差別を合理化することの典型例だ。


会えない母親への差別

別居親の中でも、母親の受ける社会の風当たりは、父親よりも強いようだ。
父親のほうは、子どもに会えなくても黙って養育費を払い続ける姿は、理想とは言わないまでも、ある程度社会的な認知もあった。
別れた後、母親が子どもをひきとるというのが一般的だったからだ。
必然的に、一般的でない母親の側は、普通は女が子どもを引き取るのに、「どうして子どもを引き受けなかったの(あなたのほうがよっぽどひどいことしたんじゃない)」、「私だったら子どもを連れて出るわよ(だからそれができないあなたは母親失格よ)」というのを、同じ女性に言われるということがよくあるようだ。
会えない母親は二重に差別を受けている。

こういった差別の実態をデータも裏付けている。

東京家庭裁判所で未成年の子を持つ夫婦関係調整事件で離婚が成立した400件のケースに対して行われたアンケート調査の結果(1973年)、別居親と子どもとの交流状況は、別居親が父親の場合、21.1%であるのに対し、別居親が母親の場合、8.7%に過ぎない(うち父親が公認しての交流はわずか1件)。
「ニコニコ離婚講座」会員への郵送調査(1987年)では、離婚後の親子交流の状況は、父親が29%、母親が15%と大きな開きがある。
(以上、棚瀬一代『虐待と離婚の心的外傷』から)

こういったデータ結果は、「追い出し婚」というものを公認していたことに典型的に現れるように、家制度の影響を強く受けたものだろう。

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