共同親権が実現しても、実際に会えるようになる親子は少ないのではという危惧がある。
この用語は、対等な立場としての理念としての共同親権とは別に、子どもの養育についての実質的な平等性について強調して用いた言葉。
「会わせないほうがいい場合は」という質問を受けることがよくある。それは同居親の側が会う会わせないを決めていい現在のルールを反映しての質問の仕方なのだけれど、それに対してははやはり、離婚後の子どもの養育は双方の親が担うのが原則であるという答えが必要であろう。
面会が制約されるのは、海外では児童虐待があった場合などであるそうだけれど、その場合でも完全に親子関係を絶つというのはめったになく、一定の監視下で慣れさせつつ、普通の面会交流に移行していくというのがパターンのようだ。夫婦間にDVがあった場合も、同様に注意深くなされる。
どういう場合に面会が制約されるかは、離婚していない家庭でも児童虐待があれば親の権利について制約され、児童相談所に子どもが保護されることを考えると、同様の基準での適用が親の離別後も考えられるだろう。
例えば公民権運動によって、黒人が参政権を得た後、それでも差別は根強く下層社会から黒人が這い上がることは難しかった。
そこで、社会的地位の実質的な平等を目指して、就職や入学などについて人口比に応じた枠を設定して優先的に入れるという施策がアメリカではとられたことがあったようだけれど、これをアファーマティブ・アクションという。黒人の子どもの入学時には、警察官が護衛して学校に送り届けるということまでやったようだけれど、人権保障が国の役割だというのがよく自覚されているということなのだろう(この施策はその後、さまざまに議論されてきたけれど)。
特に離別後の共同監護を考えるときに、「実質平等」を強調するなら、両方の親が子どもの養育に意欲を見せている場合、5:5の監護割合が権利として可能であることを理念として認めるということは必要なことだろうと思う。
フランスなどでは、1週間ごとに子どもが両親の間を行き来するということが実践としてなされているようだけれども、離別時において両親間の葛藤を高めないためにも、このような理念は重要である。
共同監護における実質平等の保障は、長い差別の歴史に対するアファーマティブ・アクションというわけ。
こういった問題意識は、婚姻中の男女間の対等性への自覚を促すものでもある。