棚瀬一代『「クレイマー、クレイマー」以後」(1989年)のサブタイトルとして使われた言葉。
その後、あまり一般化していなかったけれど、法律用語の「共同監護」が当事者間でも使われるため、普及しなかったというのもあると思う。
「共同監護」という言葉では、実際、世間的には何を言っているのかよくわからないけれど、この言葉であれば、離婚後に別居親が求めるものの中身の多様性を確保できるのではないかと、最近思っている。
「共同養育」
この言葉も最近当事者の中で使われる。
共同親権という言葉が、現在の親権概念の延長線では貧困さをぬぐえないことから、最近は一般的になってきた。共同親権という決定権の共有化を求めるのは、共同の養育にかかわるための手段なので「共同養育のための共同親権」が運動の目標でもある。
もちろん、「養育」には、子どもの人格形成に影響を持つものとして、単に金を出すということだけではない意味もあるわけなのだけれど、事実母子家庭側が、「養育」と強調するときは、「養育費」だった。そうなると、別居親の父親は「会えなくっても黙って金を払っておけ」という論理がまかり通ってしま う。少し誤解を生みやすい。
「並行養育」
「共同養育」といっても、実際仲が悪くて離婚するのに、できるわけないという疑問は当然ある。
しかし実際は、共同といっても、お互いの取り決めがしっかりしていて、子どもが自分のところにいるときにだけ、子どもの責任を持つのであれば、後は受け渡しのトラブルさえ未然に防げれば、共同養育は可能である。これを「並行養育」という。
裁判所は、「協力できなければ面会交流は無理」という理屈だが、実際には「ルールがあれば将来的に協力も可能」なのだ。
「非関与という協力」があれば、共同養育はほとんどのカップルで実現できる。
「共同監護」
「監護権」は親権の中で「身上監護権」を意味するが、実際には、司法の中では「監護」は単に「身の回りの世話」という程度でとらえられている。
つまり「監護」は親だけができるというわけではない。
里親や、あるいは再婚家庭でも、「監護」はできるから、「子どもの福祉」のために、別居親の存在が排除されてきたのはそのためである。
この「監護」概念では、身の回りの世話に携わっていない父親が、離婚時に子どもを争った場合には、不利になるのは当然である。しかしその父親自身も、長時間労働で子育てにかかわりたくてもできないのかもしれない(あるいは、もともとそういう気がないのかもしれない)。
そもそも、親どうしの「子育て観」の違いによって、離婚に至る夫婦は多いのに、離婚後も一面的な裁判所の「監護」概念に別居親が擦り寄る必要もない。
実際上の「別れたあとの共同子育て」にどうかかわるかというのは、それでも親どうしのすりあわせが必要だろうけれど、別れた後に、自分が「子育て」にどうかかわっていくのかというのを、あらためて考える親は、同居親も別居親も多いのではないだろうか。これまで子育てにかかわってこなかったのが離婚の原因なら、今からでも遅くないから、子育てをさせればいいのだ。
法律用語に振り回されるよりも、「別れたあとの共同子育て」をどう実現していくかという視点から、法制化も考えていかないと、結局当事者も、法律家の論理に振り回されていくことになるだろう。
「別居中の単独監護」
ちなみに、裁判所は別居中の監護について、766条を類推適用して「監護者指定」の審判をする。
親権から監護権を引けば、残るは財産管理権だけなのだから、こういった裁判所の運用は、事実上、婚姻中の共同親権すら裁判所が侵害しているということになる。事実上、単独親権になってしまうのだから。
子どもを連れ去られて会えなくなった親は、法に定められた権利すら行使できない。これは法制化以前の問題である。