「犬にエサをやるような」面会交流を取り決める審判のことを言う。
日本では、家裁を経ると、別居親と子どもとの面会交流が月に1度が相場とされ、年間100日は保障されている諸外国と違って、極端に少ない。
月に1度2時間だと、365日分の1日となる。1日間換算だと約4分、諸外国の標準の実に100分の1である。
これはたとえば、年に3度というのが、隔月になったり、月1になったり、家裁の面会交流相場が変動してきた結果のようだが、何の根拠もあるわけではない。
しかし家裁の調停委員は、月に2度の取り決めが当事者どうしで決まりそうになっても、月に1度に減らしたり指導する場合もある。
審判になると、それが「子どもの福祉」という言葉で正当化される。
もちろん、月に1度は、同居親が拒否的でない場合に可能となることで月に1度の取り決めがみんながみんなできるわけではない。
「面会謝絶審判」
家裁で面会交流が絶たれる審判を呼ぶ。
最近は、「家裁いいかげんにしろ! Kさん親子の面会謝絶審判を問う会」の活動もあり、この言葉が流通している。
別居親と子どもとの関係が何の問題もなくても、同居親の不安定によって、家裁は親子の面会を絶つ場合がある。
「子どもの福祉」
家裁が親子の交流を制限する場合に使う言葉。
面会交流を制限する場合、子どもが小さかったり、親どうしに葛藤があったり、養子縁組がなされたり、さまざまな理由を家裁の審判官は上げることがあるが、最後に水戸黄門の印籠のように、この文言を持ち出して審判書きを終える場合が多い。
何より、面会交流を家裁が推進する立場であるとするなら制限的に面会交流の決定を出すこと自体が矛盾である。
したがって、同居親が拒否的である場合、その意向を反映して
「会わせてやってんだから、少なくって我慢しろ」
という決定を出すときに、それが「子どもの福祉」だと裁判所は言わざるを得ない。
「別居親は邪魔者」
家裁や、子どもに会わせたくない同居親にとって、子どもに会いたいと主張する別居親の存在は、「邪魔者」そのものである。
2008年には、子どもに会いたいと主張する母親が、父親に殺される事件が起きたが、これなど「邪魔者は消せ」そのままである。
会わせないということは、会わせない側にも相当の努力を強いることになる。
いずれにしても、関係をクローズドにして「邪魔者」を排除し続けることには無理がある。
しかし面会交流が、「子どもの権利」ではなく、「子どもの福祉」である以上、こういった排除の論理はまかり通ることになる。
「最小面会」
弁護士の棚瀬孝雄さんが、最近使っている用語。
「ぼくらは、『エサやり面会』って呼んでますよ」
「ぼくは、『最小面会』って呼んでるけどね」
なんて、会話を交わしたことがある。
現在、家裁の審判レベルでは、月に1度2時間という面会交流の相場が固定化しつつある。以前のように、「面会謝絶審判」を出すことには、世論の動きもあって家裁の側は反発を受けるということを知っている。
月に1度なら、「会わせてやってるんだからいいでしょ」と別居親に説得できる。たまには弁護士も別居親を説得してくる。
一方、同居親の側にも、「月に1回だけなんだから、そのくらい会わせてやれば」と説得できる。
ちなみに、両者に何らかの問題がある場合は、隔月1回が、現在の相場である。
調停委員もこの相場のもとに、審判結果をほのめかし、調停をとりまとめようとするわけだ。
「最小面会」にするときの審判の理屈は主に高葛藤、家庭の安定、子どもの年齢の3つである。親どうしの対立関係が激しいときは面会制約の理由になる。
子どもが養子に入れられたりすると、家庭の安定が強調される。子どもが小さいときは、頻繁に動かすのはと言い、子どもが大きくなれば子どもの意思があるからと面会を制約する。
要するに、どうやっても、最後はそれが「子どもの福祉」だからという説明で、「最小面会」か面会謝絶に落ち着くというしかけになっている。
これを覆していくには、この「子どもの福祉」の中身を子どもの権利の視点から変えていくということになる。発達心理学的な海外の成果をあらゆる機会で紹介していくのも必要になってくる。
でも、最終的に「子どもの福祉」が裁判官の頭の中にある「イエ制度的発想」と枠から外れた判例を出すことに抵抗がある官僚主義の中で、「子どもの最善の利益」は「裁判所の最善の利益」に落ち着いていくというしかけにある。