2010年12月04日

「裁判所に大岡越前はいない」

「裁判所に大岡越前はいない」

私たちの仲間が、10年以上前自分の弁護士から言われた言葉です。

『家裁の人』の作者、毛利甚八は、自分がストーリーを描いた
マンガの主人公のような裁判官なんて、ほんとうはいないということを
裁判官に取材したルポルタージュ『裁判官の肖像』で振り返っています。

よく裁判所は正義が通る場だと勘違いされています。
直接の暴力や力関係の対立を防ぎ、
国家が社会秩序を維持するためには法の支配によって
当事者間に納得を得させるために裁判所という仕組みが必要なわけで
それが正義かどうかはあまり関係ありません。

ところで真実を究明し刑を科す刑事裁判や
当事者間の対立に(多く金を取ることによって)
勝ち負けによって判断する民事と違い、
家庭裁判所は人間関係を調整することに主眼が置かれています。
その名も「家事」。

日本の家庭裁判所は
「家庭に光を少年に愛を」
というスローガンのもと、
アメリカのシステムを導入することによって作られたと言います。
当初から、裁判を行わない裁判所されて設計され、
離婚裁判は地裁で行われていました。

それで何を行っているかというと「調停」と「審判」
要するに話し合いによって当事者間の調整を行い、
話し合いがつかなければ裁判官が「審判」で決定します。
家族関係に勝ち負けはなじまないというのです。
こういった考えは一見もっともに聞こえます。

しかし、「夫婦は大事だから離婚はよくない」
という時代とは違い、価値観は多様になりました。
「離婚したら小さいうちは子どもは女性が育てる」
という世間の考えも現在では強固ではありません。
それぞれが考え方が違って譲れないから離婚に至った場合、
当事者間を説得できる言葉を調停委員が持っているとは限りません。
結果、離婚をめぐる主張の対立は、多く力関係によって左右されます。

親どうしが子どもをめぐって腕を引っ張り合った場合、
腕が抜けても離さない親が子どもを確保するのです。

子どもを確保したほうが圧倒的に強いという
「実効支配」のルールの背景には
60年前のシステムのままに家裁が運営されている
ことが大きな原因の一つになっています。

家裁に行ったら、物分かりのいい人は負けます。ゴネ得です。
調停委員は物分かりのいい人を説得して諦めさせるからです。

もちろん、法の運用は時代によって変わっていきますし、
裁判所での決定が「世間の基準」であることもまた事実です。

「子どもに会うのが月に1回2時間なんて、とても『世間の基準』とは思えない」
「ほかのだれでも子どもと会えているのに、親の私だけが子どもと会えない」

しかし、そういった非常識な裁判所の判断を許しているのは
私たち、世間の人間です。







posted by 家裁監視団 at 21:33| Comment(0) | 家庭裁判所とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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