2010年12月04日

単独親権制度と「子捨て機関」

単独親権制度

日本では子どもがいるカップルの離婚に際し、
子どもの親権をどちらかの親に決め、
それを役所に提出することによって離婚が成立します。
どちらか一方が離婚を拒めば、家庭裁判所での調停や審判、
離婚裁判で離婚と子どもの親権が決められます。
親どうしの関係が子どもについては冷静なら
双方の親が子どもの養育に関与することも可能ですが、
家裁に行くカップルはもともと話し合いがつかないから
家裁に行くわけで、子どもの連れ去りや面会拒否があれば
さらに両者間で養育合意をすることは難しくなります。

したがって、
裁判所は一方の親に子どもをあきらめさせることによって
将来の紛争の火種を断つという運用をしてきました。
協力できないカップルに面会交流は無理というのです。

しかし、親どうしが子どもを押し付けあっているならともかく
双方が子どもの養育の意思を示している場合、
どちらかに親権を決めることに合理性はありません。

親どうしの関係が離婚時において非和解的でも
受け渡しなどが安全になされるよう細かくルールを決め、
それぞれの親のところに子どもがいる場合にのみ
子どもの養育の責任を持つ「並行養育」であれば、
当面親どうしが非関与的でも共同養育は成り立ちます。
将来的には協力できる余地もできてくるでしょう。

親子関係を断ったり極端に制限する
家庭裁判所の現在の運用は間違っています。


単独親権制度と親権の所属


戦前、親権は婚姻中も家長(つまり男)にあり、
戦後の憲法の男女平等規定に伴い婚姻中のみ共同親権になりました。
しかし実際の家庭内での男女の地位や性別役割分業はすぐには変わらないため
離婚時には、親権を父親に子どもの養育を母親にさせる親権・監護権の
分属がなされたり、あるいは母親が家を追い出されて親権もとれない
ということが多くありました。
母親が親権を得る率が父親よりも多くなったのは
高度成長時代の1965年です。
現在では、女性が親権をとる率は8割から9割となっています。

離婚後も、母親が子どもの養育にかかわることが
できるようになったわけですが、逆にいえば、
それで父親が消えてしまえば、養育負担は母親のみに負わされます。
父親からしても子どもにも会えず、養育費を払い続けるのは
まるで自分がATMになったような感覚です。
子どもの養育は「養育費」という経済のみでなされるわけではありません。

現在においても跡継ぎの問題で女性が家を追い出されることはあり、
そうなると単独親権制度はそれを肯定するばかりです。
先に子どもを連れて家を出れば親権は得られますが、
男性女性どちらが優位にしろ、子どもをめぐって
家族関係に序列を作っていくのに単独親権制度は最適です。

もちろん、こういった諸々の問題は単独親権・共同養育を
共同親権・共同養育に変えればすべて解決するわけではありません。

男女とも雇用条件は若い世代ほど厳しいですが、
女性の劣悪な雇用環境が整備されなければ、
経済格差を背景にした発言権の違いは離婚後も生じ、
それが子育てをめぐる対立の再燃に転嫁することもあるでしょう。
男性の側も、離婚を機に養育にかかわろうとしても
仕事を離れれば生活不安に直結するのであれば、
共同養育など難しくなります。

何よりも、男尊女卑的な考えの存在や、
婚姻中の対等性の確保が意識されなければ、
共同養育が親どうしの対立の機会を増すばかりという
危惧は杞憂とは言い切れません。

しかし、逆にいえば、離婚を機にそういった関係性を
個々の当事者が見直すことも可能です。
離婚はしていなくても子どもを理由として
仮面夫婦を続けている人は多くいます。
共同養育・共同親権という制度が法的に確保されれば
当事者間の関係性は力関係だけに左右されず、
そういった関係性を見直すきっかけにもなります。
そんな中で、離婚するしないの判断も冷静になされていくでしょう。


単独親権制度は子捨てを促しシングルペアレントを量産


しかし、家裁は一方の親に子どもをあきらめさせ
他方の親に養育負担を負わせます。
別の見方をすれば、親に子捨てを促し、
シングルマザーやシングルファーザーを量産してるのです。
経済的に困窮したシングルマザーやシングルファーザーへの
公的扶助は必要ですが、それが制度を背景に生じているとすれば、
マッチポンプです。

子どもも、もう一方の親が子どもの成長にかかわりたいと
思っていたのに、家裁の斡旋によって親と会えなくなったと
後に知れば、そのことにしかたなかったと納得がいくでしょうか。
親と会えない時間を抱えたまま大きくなり
そのことに後悔するのは親ではなく子どもです。

「チルドレンファースト」ではなく「チルドレンラスト」

それが現在の家裁です。
posted by 家裁監視団 at 21:47| Comment(2) | 家庭裁判所とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「裁判所に大岡越前はいない」

「裁判所に大岡越前はいない」

私たちの仲間が、10年以上前自分の弁護士から言われた言葉です。

『家裁の人』の作者、毛利甚八は、自分がストーリーを描いた
マンガの主人公のような裁判官なんて、ほんとうはいないということを
裁判官に取材したルポルタージュ『裁判官の肖像』で振り返っています。

よく裁判所は正義が通る場だと勘違いされています。
直接の暴力や力関係の対立を防ぎ、
国家が社会秩序を維持するためには法の支配によって
当事者間に納得を得させるために裁判所という仕組みが必要なわけで
それが正義かどうかはあまり関係ありません。

ところで真実を究明し刑を科す刑事裁判や
当事者間の対立に(多く金を取ることによって)
勝ち負けによって判断する民事と違い、
家庭裁判所は人間関係を調整することに主眼が置かれています。
その名も「家事」。

日本の家庭裁判所は
「家庭に光を少年に愛を」
というスローガンのもと、
アメリカのシステムを導入することによって作られたと言います。
当初から、裁判を行わない裁判所されて設計され、
離婚裁判は地裁で行われていました。

それで何を行っているかというと「調停」と「審判」
要するに話し合いによって当事者間の調整を行い、
話し合いがつかなければ裁判官が「審判」で決定します。
家族関係に勝ち負けはなじまないというのです。
こういった考えは一見もっともに聞こえます。

しかし、「夫婦は大事だから離婚はよくない」
という時代とは違い、価値観は多様になりました。
「離婚したら小さいうちは子どもは女性が育てる」
という世間の考えも現在では強固ではありません。
それぞれが考え方が違って譲れないから離婚に至った場合、
当事者間を説得できる言葉を調停委員が持っているとは限りません。
結果、離婚をめぐる主張の対立は、多く力関係によって左右されます。

親どうしが子どもをめぐって腕を引っ張り合った場合、
腕が抜けても離さない親が子どもを確保するのです。

子どもを確保したほうが圧倒的に強いという
「実効支配」のルールの背景には
60年前のシステムのままに家裁が運営されている
ことが大きな原因の一つになっています。

家裁に行ったら、物分かりのいい人は負けます。ゴネ得です。
調停委員は物分かりのいい人を説得して諦めさせるからです。

もちろん、法の運用は時代によって変わっていきますし、
裁判所での決定が「世間の基準」であることもまた事実です。

「子どもに会うのが月に1回2時間なんて、とても『世間の基準』とは思えない」
「ほかのだれでも子どもと会えているのに、親の私だけが子どもと会えない」

しかし、そういった非常識な裁判所の判断を許しているのは
私たち、世間の人間です。







posted by 家裁監視団 at 21:33| Comment(0) | 家庭裁判所とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする