2011年2月初旬に調停申し立てをし、4月下旬から開始されました。
私(父親)からは離婚調停、
相手方からは3月に婚姻費用分割調停が出されました。
調停委員は当初よりお金の件が先と離婚調停については一切触れず、
婚姻費用ばかりを話し合いました。
9月になり、相手方が一切コンピについて妥協しないため、
裁判官の審判になりました。
このとき若林裁判官と初めて会いました。
お互いの代理人も同席していました。相手方はいませんでした。
その際に若林は一切私には話しをせず、
またこちらをむこうともせず、代理人にのみ話をしました。
先生方といってかなり丁寧な物腰でした。
初めて見たときから、態度が横柄でした。
同氏より、基本的に算定表が基準になる旨の説明がありました。
このときに私は、算定表は10年以上前に作成されており、
税金率や社会制度、社会状況も変わっているのであり、
算定表だけをもってきめるのはおかしいという話をしました。
また、長く変更されていない算定表を裁判所が変更しないのはおかしいし、
変更する予定もないのかと聞きました。
若林は、
「そんなことは知らない。算定表が間違っているはずはないし、
そういうならあなたが自分で調べたらいい」
と言いました。
「司法の責任では」というと、その後は無視です。
また、その際に調停中に提出した資料については
目を通しているといっておりました。
10月末に審判書がきましたが、
7月26日を7月36日と書いてあったり、
紙2枚ですが、内容は3行くらい。
相手方が要求していた費用以上の算定をしているし、
こちらから提出している資料については一切触れず、
ただ入金している金銭のみについてのみ計算し、
また、こちらが支払ったとしてる金銭が
コンピとして認められない理由は一切記載がなく、
ただ年収から算定表でコンピを計算しそれを記載しているだけでした。
当然ながら即時抗告しておりますが、
今後もこの裁判官が担当と考えると絶望的状況と考えております。
調停委員は、調停開始以降相手方が申し立てをした婚姻費用についてのみ
9月まで話をし、それ以外については話を進めようとはしませんでした。
その結果、コンピのみが審判となりました。
また、離婚調停は、コンピで半年も費やされ、
2012年2月27日に行われた調停の場で、
こちらが親権を放棄しない限り調停は継続できない旨を伝えられました。
町田調査官
10月の調停から参加してきました。
10月の調停時に、こちらから不動産取得時の明細を提出する必要があり、
提出しようとすると最初は見せるように言っておきながら、
準備書面の体裁にはしていなかったため、
文書で提出するようにと鼻で笑いながら吐き捨てました。
当方にも代理人がついており、態度について意見をしておりましたが、
一切聞く耳を持ってはいませんでした。
10月の調停において面会交渉について中間調停となりました。
8月に父親のもとへ子供達が来た際に、
長男がいたずらをしたため私の母親が長男を1回叩きました。
長男と母親は話をし誤解は解けておりますが、
このことを楯に相手方は私の親族と会わせないという
中間調停を結ばせました。
ここには月1回の面会について記載がされております。
12月29日〜1月4日まで子供達はこちらへ来ていたのですが、
その際に祖母と会いたいとのことで
子供達は自分たちが会いたいから会いにいったと
記載した文書までのこして会いにいきました。
この文書は裁判所に提出しております。
1月18日に当方から親権についての準備書面を提出後、
子供達と一切の連絡がとれなくなりました。
こういった状況で2月27日に調停が行われました。
町田より2月21日に相手方の家に調査に行った報告がありました。
1月18日より連絡もとれなくなっている旨を伝えたところ、
「中間調停違反だから仕方がない、
子供は人質みたいなものだから
あなたが下手にでて我慢するしかない」
と言われました。
子供達の希望と中間調停の内容はどちらが優先されるのか確認すると、
「中間調停であり、あなたが我慢するしかない」とのことでした。
子ども達の権利よりも相手方の要求の方が優先されるのかと
私は問いつめました。
がその後は黙り、話はなかったです。
相手方が子供に貸与している携帯電話を取り上げ、
着信拒否にしていることを伝え、
同様のことを相手方からも伝えられたようです。
しかしながら、この行為に対しては改善を求めず、
「メールは受けられるようになっていると言っているから
メールするように、誰が返信したのか疑っても仕方ない、
するのかしないのかどちらですか?」
等相手方の主張を取り上げ、こちらに非があるような物言いでした。
町田は以前の調停での話については書面も読んでいないようですので、
以前「善管注意義務違反では?」と言った事があります。
その後は黙っていました。
(父親の文章をもとに作成)